出資馬の思い出

2009年11月 8日 (日)

ラウニカ回顧

一口馬主の思い出(19)

ラウニカは栗東・宮厩舎所属、コマンダーインチーフ産駒の鹿毛の牝馬でした。

この年の募集では、すでに他にプラチナベールに出資していました。
プラチナは桜花賞狙いでの出資でした・・・。
なので、大物(予定)のプラチナに対し、ラウニカにはこつこつたくさん走ってくれることを期待しての出資だったのです。
血統は地味ですが馬体が良く見え、厩舎もどちらかといえばビッグレッド系で、数を使ってくれそうとの思惑もありました。

さて、そのラウニカ、大きな故障は無かったのですが体質が弱く、疲れなどからスクミの症状を見せ、一度は2歳11月に入厩するものの、背腰の疲れからゲート試験合格後に放牧へ。
2歳夏から地道に走ってくれるのではという目論見から大きく外れてしまっています。
デビューは3歳5月と遅いものでした。

デビュー戦は芝1600mで16着、ブービーでした。
短期放牧をはさみ、2戦目はダート1800mで16頭立ての12着。
出遅れがあったことを考えれば、デビュー戦よりはマシでしたが、やはり大敗には違いありません。
2度の惨敗でメンバーの手薄な地方交流戦へ挑むことになりました。
しかし11頭中の10着。
3戦してまったく良いところが無く、能力不足との判断から、現役続行を断念し引退となりました。
5月17日のデビューから8月2日の登録抹消まで、わずか2ヵ月半でした。

ラウニカは全体的に非力な馬だったなー、という印象のお馬さんでした。
走るたびに体重が減り、最後のレースでは腹が巻き上がってしまっていました。
気性面からか、はたまた生来の体質的なものからなのか、食べたものがあまり身にならなかったのではないかと思います。

私は未勝利戦終了までは、たとえダメそうな馬でも現役を続けていいという考えですが、ラウニカに関しては、陣営の能力不足という判断は正しかったと思います。
未勝利戦がまだ残っているなかで、故障したわけでもなく引退してしまったラウニカですが、たとえギリギリまでねばっても勝ち上がるのは難しかったでしょう。

ラウニカは、シーザリオやブルーメンブラットの活躍で有頂天になっていた私に、あんたに相馬眼はまったく無いよと教えてくれたお馬さんでした。

一口馬主の思い出(18)

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2009年3月 2日 (月)

プラチナベール回顧

一口馬主の思い出(18)

プラチナベールはアグネスタキオン産駒の芦毛の牝馬です。
パッチリした大きな瞳の可愛い顔をしていました。

2005年産が募集された当時、私は調子に乗っていました。
シーザリオ、ブルーメンブラットと2年連続でクラシック出走を果たしたことで、私にも大舞台に立てる馬が選べるんだと、勘違いしてしまったのです。
走らなかった馬もたくさんいたのに、都合のいいところしか見えてなかったですね。

目標は、シーザリオが2着で涙を飲んだ桜花賞です。
大物狙いであれば、角居厩舎の馬に出資するのが一番。
この年は、角居厩舎に所属予定の牝馬が2頭いました。
両方とも2800万と、牝馬にしては高額で、牡馬3000万以下、牝馬2000万以下という、私の出資基準からははずれていましたが、そこは大物狙いと言うことで、妥協することにしました。
でも両方出資するのは厳しいので、どちらか一方を選ばなければなりません。

で、選んだのがプラチナベールでした。
募集時点ですでにかなり白っぽい芦毛だったので、桜花賞のころにはもっと白くなっているに違いありません。
漆黒のシーザリオが勝てなかった桜花賞を白銀のプラチナが勝つ・・・。
なんて絵になる光景だろうと、もう妄想大炸裂です。

さて、無事に抽選を突破し、晴れて出資することができたプラチナベール。
多少疲れが出たりしたものの、概ね順調に育成は進み、2歳の8月には札幌競馬場へ入厩しました。
しかし、他馬に蹴られるというアクシデントがおこります。
トモの入りが甘いということもあり、ゲート試験合格後、放牧へ。
2歳12月に再入厩するも、また他馬に蹴られて3針縫うというケガをします。
ケガを治療し、年が明けて1月19日にデビュー。
結果は8着でした。

やはりまだトモの力がないということで、グリーンウッドでの調整をはさみ、3歳5月に2走するも惨敗。
見切りを付けられたのか、美浦・斉藤誠厩舎へと転厩となります。
転厩後、1走するも骨折してしまい、引退となりました。

募集時、どちらにするか迷ったトールポピーとは、ここまで差が付くとは思っていませんでした。
シーザリオとディアデラノビアのような関係になって欲しかったのですが・・・。
トールポピーが阪神JFを勝った頃は、正直なところ、うらやましくて仕方なかったです。
でも、これだけ差が開き、プラチナが引退して時間がたった今は、他の馬と比べても意味が無かったのになあ、と思います。
今はプラチナに謝りたいです。
シーザリオの幻影を押し付けてごめんなさい。
トールポピーと比べてごめんね。

一口馬主の思い出(17)

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2008年12月23日 (火)

2005年産募集馬回顧

一口馬主の思い出(17)

2005年に生まれ、2006年に募集されたこの世代は、関東馬34頭、関西馬41頭の計75頭でした。
年々募集馬の数も増えて、選ぶのも大変になりました。
そして抽選になる馬もずいぶん増え、あまり様子見することができなくなりました。

この年、出資したのはプラチナベールとラウニカの2頭。
前年の募集では、もう一口を止めようかと考えていた私ですが、この年、そんな考えはまったく無くなっていました。
シーザリオに続いてブルーメンブラットがオークスに出走し、牝馬クラシックの舞台に2年連続で出資馬が立つことができたことで、もしかして、私、見る目ある?、と大いなる勘違いをしてしまったワケです。
調子に乗ってしまったんですね。
さっぱりな馬にもたくさん出資してきたことなど、すっかり忘れています。

自分の馬選びはイケる、と妙な自信を持ってしまった私は、はりきって選ぶことに。
目指すのはシーザリオが2着に敗れ、悔しい思いをした桜花賞です。
ハットトリックやシ-ザリオ、ディアディラノビアの活躍から、やっぱ角居厩舎よね、と考えました。
この年はマゼラン、トールポピー、プラチナベールの3頭が角居厩舎でした。
マゼランは価格的に最初から出資対象外ですし、最大目標は桜花賞ですから、牝馬2頭のどちらかに出資しようと思いました。
そして選んだのがプラチナベールです。
漆黒の馬体のシーザリオがオークスを勝ち、1歳にしてかなり白かった芦毛のプラチナベールが桜花賞を勝つ・・・。
美しすぎます。
というわけで、プラチナベールに一次募集で申し込み、無事に抽選を突破して出資できました。

そして、2次募集が始まってすぐに満口間近になったラウニカにも出資。
こちらは数を使ってくれそうな厩舎ということで、1000万という価格の安さもあり、たくさん走ってくれたら楽しめるだろうと思って選びました。

下心満載で選んだこの2頭。
はたして結果は・・・?
って、もう出ましたが。

一口馬主の思い出(16)

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2008年10月28日 (火)

2004年産募集馬回顧

一口馬主の思い出(16)

2004年に生まれ、2005年に募集されたこの世代は、関東馬30頭、関西馬35頭の計65頭でした。
前年の2003年生まれの募集馬が50頭でしたから、一気に15頭、口数にして6000口も増えています。

この世代が募集された2005年、キャロットクラブは大ブレークを果たします。
まずは年初からハットトリックが京都金杯と東京新聞杯を連勝。
キャロットクラブとしては、リニューアル前から考えても初めての重賞制覇でした。
また、オークスでシーザリオとディアデラノビアが1、3着となるなど、クラシック戦線でも大活躍します。
大舞台での活躍に目が行きがちですが、この2002年生世代は勝ち上がり率も6割を超え、非常に優秀でした。

結果、会員がすごい勢いで増加していったのです。
何でも、ピーク時には毎日20人以上が新規入会していたとか。
募集頭数が増えたのには、会員数増加も関係していたのかもしれません。

クラブがかつて無い、そして今後も無いかもしれない盛り上がりを見せる中、私は岐路に立っていました。
もう今後は出資せず、一口馬主を止めようかと考えていたのです。

キャロット絶好調の尻馬に乗って、私もシーザリオという名馬と出会うことができました。
一口を始めたときから、重賞勝ちというのは一つの大きな目標だったわけですが、まさか出資を始めて3世代目で達成できるとは思ってもいませんでした。
しかも重賞どころかG1、はては海外G1まで。
事実は妄想より奇なりです。

相馬眼も血統的知識もない私にとって、シーザリオに出資できたのは、単に運が良かったからです。
こんな幸運、おそらく2度とないでしょう。
今後、シーザリオを超える馬に出資できるかと言えば、それは難しいと思いました。

そんなわけで、この年の1次募集は見送りました。
途中経過もあまり熱心に見ないようにしていたので、どのくらいの数の馬が即満口になったのか覚えてないのですが、かなりの売れ行きだったのではないでしょうか。

結局はその後、ガマンできずに2次募集でペルネティアナに出資しちゃうんですけどね。
意志が弱いです。
初年度のラントルフトは別にして、2年目から今まで、毎年2、3頭ずつ買っていますが、2004年産が1頭だけなのは、迷いの表れなのでした。

ペルネティアナは現役なので、引退したときに振り返ります。

一口馬主の思い出(15)

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2008年10月 7日 (火)

スプリームブリス回顧

一口馬主の思い出(15)

スプリームブリスは栗東・大久保龍厩舎所属、サクラバクシンオー産駒の鹿毛の牝馬です。
セレクトセールで当歳時に1500万で落札されたのに募集価格は1600万。
しかも募集時、蹄の欠損によりDVDに映っていないという、ワケあり感ただよう馬でした。
でも厩舎が良かったのと、募集時のケガが元で募集価格が下がったのであればお買い得かも?、とポジティブに解釈し、出資することに。
育成段階の早いうちから脚部不安に悩まされていたことから、シーザリオ効果で会員大量増加中だったキャロットにあっても、結局最後まで半分も売れなかったと記憶しています。

スプリームブリスは最初から最後まで脚部不安に悩まされ続けました。
蹄の欠損以外にも、両前種子骨炎、屈腱炎と、次々に不安を発症し、だましだまし調整をするしかありませんでした。
早期デビューできるはずも無く、3歳7月、やっとのことでデビューします。
わりと調教タイムが良かったこともあり、既出走馬相手のデビュー戦としては高めの6人気に押されましたが、レースでは他馬から逃げようとするなど気性的に安定せずシンガリという結果に。
その後、地方交流戦へ2度出走するもどちらも大敗、未勝利戦が終わってしまいました。
引退もやむなしと思いましたが、まさかの500万下挑戦。
距離短縮が良かったのか、それまでで1番の走りを見せます。
と言っても14頭中の9着なんですけど、それまでの3戦がシンガリ、シンガリ、ブービーと1頭しか先着していないことを考えると、大健闘と言っていいでしょう。
他馬を怖がる気性も、このレースでは見せませんでした。

持てる力を出し尽くしたのか、レース後、脚元に腫れが出たため、引退となりました。
腫れが出なくても引退だったと思いますが、最後にちゃんと競走馬らしいレースができて良かったです。
脚元の不安に付きまとわれていたため、調教もしっかりやることができず、芝向きとの評価にもかかわらず負担を少しでも軽減させるためダートしか使えませんでしたが、関係者は最善を尽くしてくれたのではと思います。
成績は悲惨でしたが、不満はありませんでした。

スプリームブリスは繁殖に上がり、今年、アグネスタキオンとの間に初仔の牝馬が生まれました。
セレクトセール当歳に上場され、2100万で落札されています。
スプリームはウインドフォールに続き、私が2頭目に命名した馬なんですが、血統表の中に名を残すと言う仕事をしてくれました。
競走馬としてはさっぱりな成績に終わってしまいましたが、母としてはこれからです。
子供たちの走りを見守っていきたいと思います。

一口馬主の思い出(14)

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2008年9月 1日 (月)

ドゥルセデレーチェ回顧

一口馬主の思い出(14)

ドゥルセデレーチェは父フレンチデピュティ、母ポトリザリスの栗毛の牝馬です。
栗東・角居厩舎所属でした。

ドゥルセデレーチェが募集された2004年、この年の年末にシーザリオ、ディアデラノビアの2頭が相次いでデビューし、新馬勝ちをしました。
共に能力を感じさせる勝ちっぷりで、特にディアデラノビアは早くも桜花賞馬候補と言われるほどの存在に躍り出ました。
ディアデラノビアとシーザリオは2頭とも角居厩舎所属で、同厩のエキゾーストノートもすでに勝ち上がっており、3頭とも上のクラスでも十分通用すると思われました。
2003年に募集された角居厩舎の3頭は、2歳戦ですべて勝ち上がったことになります。

ドゥルセデレーチェはディアデラノビアの半妹で、この世代唯一の角居厩舎予定馬。
今なら抽選必須ですが、募集開始時390キロと小さかったことと、繋ぎが立っていたためか、満口にはほど遠い状態でした。
が、角居厩舎の活躍っぷりを見て、「これは買わねば」と思い張り切って出資しました。
同じことを考えた人は多かったようで、土日だけであっという間に満口になりました。

さて、ドゥルセデレーチェは大きな頓挫も無く、2歳の9月には入厩となりました。
しかし腰やトモが弱いため、ゲート試験合格後、グリーンウッドへ放牧に出ます。
その後11月に再び入厩するも、やはりトモの蹴りが弱く、山元TCへ放牧。
山元TCで飛節に大きな骨膜が出てしまい、時間がかかりそうということで、ノーザンへ移動となります。
なかなか骨膜が良くならず、3歳の夏、ようやくデビューのため札幌競馬場へ移動するも、今度は両前に腫れが出てしまいます。
ごまかしながら調整を進め、3歳の9月10日、遅いデビューを迎えました。
結果は3戦して10着。
その後2戦して8、9着と、見るべきところ無く敗れ、未勝利戦が終わってしまいました。
再ファンドの道も示されましたが、屈腱炎を発症し、引退となりました。

現在、ポトリザリスの仔は、ディアデラノビア、ドゥルセデレーチェ、クルサード、マゼランの4頭がデビューしています。
ドゥルセ以外はすべて勝ち上がり、長姉ディアデラノビアは言うに及ばず、弟のクルサードとマゼランも無事だったらクラシック戦線に乗っていたと思います。
ドゥルセデレーチェも、屈腱炎にならなかったら、あの成績でも再ファンドされる予定だったのですから、秘める素質はあったのかもしれません。
価格が高いので、もう私がポトリザリスの仔に出資することは無いと思いますが、ポトリザリスはキャロットを代表する繁殖だと言っても過言ではないでしょう。

今年、ドゥルセデレーチェはディープインパクトの牡馬を生んでいます。
セレクトセールには出ていませんでしたし、来年、キャロットで募集されるかもしれませんね。

一口馬主の思い出(13)

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2008年7月29日 (火)

2003年産募集馬回顧

一口馬主の思い出(13)

2003年に生まれ、2004年に募集されたこの世代は、キャロットクラブがリニューアルしてから、また私が一口馬主を始めてから4年目の世代です。
この頃からようやく出資馬を選ぶスタイルが定まってきたかなと思います。
といっても、走る馬を選べるようになったかというと、そんなことはないのですが。

この年は関東馬22頭、関西馬28頭の計50頭が募集されました。
サンデーサイレンスのラストクロップに注目が集まったと記憶しています。
年々すぐに満口になる馬の数が増えてきましたが、1次募集では出資しませんでした。
この頃、いろいろあってゆっくりカタログを眺める時間も精神的余裕も無く、だったら少し落ち着いてから、残っている馬の様子を見つつ出資しようと考えたのです。

出資したのはドゥルセデレーチェ、ブルーメンブラット、スプリームブリスの牝馬3頭です。
ドゥルセデレーチェは、角居厩舎のエキゾーストノート、ディアデラノビア、シーザリオが次々と勝ち上がり、しかも半姉のディアデラノビアがかなり良い勝ちっぷりを見せたので出資。
今なら抽選確実の血統と厩舎ですが、ディアデラノビアがデビューするまで残っていました。
ブルーメンブラットは、ベガが好きだったこともあり、いつかベガの血を引くアドマイヤベガの仔に出資したいな、とかねてより思っていました。
リリカルプロウズとブルーメンブラットのどちらかに出資しようと考え、最初は音無厩舎のリリカルのほうに気持ちが傾いていましたが、迷っているうちにリリカルが満口になってしまったので、ブルーメンのほうに出資しました。
確か3歳の2月頃に満口になったと思います。
そして、馬名決定を受けてスプリームブリスに出資しました。
スプリームは最後までほとんど売れていなかったです。

各馬については、またいずれ詳しく書きたいと思います。

一口馬主の思い出(12)

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2008年7月 1日 (火)

2002年産出資馬回顧

一口馬主の思い出(12)

2002年生まれのこの世代は、募集42頭中25頭もの馬が勝ち上がり、再ファンドされたサーチエネミーとクードゥシャンスも中央で勝ち、計27頭が勝ち星を得ました。
最終的に勝った馬は軽く6割を超えます。
勝ち上がり率だけではなく、シーザリオ、ディアデラノビア、フィフティーワナーの重賞勝ち馬に、ペニーホイッスル、スルーレート、コメディアデラルテの重賞2着馬と、上のクラスでの活躍も目立ちます。
まさにヴィンテージ世代、こんな成績はおそらく今後訪れることはないのでは、と思います。

この世代ははディープインパクトやラインクラフトといったノーザンファームの生産馬が大活躍した世代でもあり、キャロの成績もそれに付随して上昇した感じです。
キャロットクラブがリニューアルしたとき、まだ生まれていなかった世代ということもあり、先約もなくノーザンが本腰を入れたということもあるかもしれません。
キャロは良くも悪くもノーザン次第のクラブですからね。

そんな好調に乗っかる形で、私もシーザリオという名馬と出会うことができました。
ラッキー、としか言いようがないです。
でも最近のクラブのデビュー率の悪さなんかは、もうちょっと何とかならないもんかと思いますね。

一口馬主の思い出(11)

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2008年6月16日 (月)

シーザリオ回顧

一口馬主の思い出(11)

Cesarioシーザリオに出資することができたのは、本当に幸運なことだと思います。

募集パンフレットを一目見たときから、この馬はG1を勝つ馬だと確信・・・するわけもなく、新進気鋭の角居厩舎所属だということと、お手軽な値段だったことで注目はしていましたが、最初は出資候補の1頭にすぎませんでした。
募集当時、角居厩舎はまだブレーク前でしたし、さらにスペシャルウィークの初年度産駒が大不振で、数十連敗中だったことが影響したのか、すぐに満口になるほどの人気ではありませんでした。
しかし順調に調教が進んだこともあり、年明けくらいから売れてきたと記憶しています。
ちょうどそのころ打撲してしまったため、少し迷いましたが、大したことはなさそうだったので出資することにしました。
珍しい青毛、というのが決め手でしたね。
何が何でも出資したい馬だったわけではないので、たぶん即満口になるような人気だったらすぐあきらめて、他の様子見できる馬にシフトしていたことでしょう。
やっぱり最終的にモノを言うのは運なんだなあ、と思います。

成績については、今さら説明するまでもないでしょう。
デビューからわずか7ヶ月で海外G1まで制したシーザリオの活躍は、一口を始めてから、初出走までに1年半、初勝利までに2年近くかかった私にとって、あまりの展開の速さにわーきゃーうろたえるばかりでした。
シーザリオ以前は、出資馬が特別戦に出走したことすらなかったんですよね。
勝ち鞍もヴォークリンデの未勝利戦とリヴインホープの500万下平場の2つでした。
シーザリオのレースは一戦一戦それぞれ思い出深いのですが、1番うれしかったのはフラワーCを勝った時です。
2着以上にならなければ桜花賞に出られず、賞金を加算したいレースでした。
結果は心配する必要ないくらいの快勝で、この勝ちで実質的に牝馬三冠レースとその後のエリザベス女王杯までの出走権を獲得しました。
秋以降のレースには出られませんでしたが、G1出走という夢を叶えてくれ、それどころか勝ってくれました。
海外G1までもです。

古馬になってからの走りを見れなかったのは非常に残念ですが、その分は、仔どもたちに期待したいと思います。
現在、初仔の長男と2番仔の長女が生まれていますが、この2頭は、シーザリオが早く引退していなかったら生まれていなかったわけですからね。
2頭共にキングカメハメハ産駒の黒鹿毛です。
私の資金力では出資できないでしょうが、応援するくらいならできますので。

シーザリオの引退によせてもらった写真集は宝物です。

一口馬主の思い出(10)

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2008年5月13日 (火)

オルロフ回顧

一口馬主の思い出(10)

オルロフは栗東・中尾秀厩舎所属、コマンダーインチーフ産駒の鹿毛の牡馬でした。

募集開始当初はあまり気になる存在ではありませんでしたが、育成が早く進みんでいたため、注目するようになりました。
この年に新規開業した中尾秀師の元には、オルロフとファインスティールの2頭がいました。
ファインスティールは当初、中尾秀師の父、中尾正調教師が預託予定でしたが、中尾秀師開業にあたって転厩していました。
確か、この年は引退する厩舎より新規開業厩舎のほうが多くて、開業できるかどうかわからなかったんですよね。
中尾秀師の開業が遅れていたら、オルロフが中尾正厩舎に転厩していたのでしょう。

さて、オルロフとファインスティールは共に順調に調整が進み、2歳の4月1日という、かなり早い時期に栗東へ入厩することになりました。
当時、とにかく早いデビューからたくさん走ってくれる馬が欲しかった私は、オルロフとファインスティールのどちらかに出資しようと思いました。
新規厩舎ならまだ馬の数がそろっていないので、たくさんレースを使ってくれると思ったのです。
オルロフは丈夫さをアピールするクラブコメントが多く、大型馬のファインスティールより故障しにくいだろうと思い、こちらを選択しました。

トレセンから函館競馬場へ移動した後に熱発したものの、概ね順調にデビューへ向けての調整も進み、オルロフは7月11日の函館2歳新馬戦でデビューしました。
芝1200mは、長い距離が向いていると評価されていたオルロフにはいかにも短いのですが、夏場の2歳戦は短距離戦がほとんどなので、距離不足を承知で出走します。
ところが運の悪いことに、その日は豪雨によって馬場がかなり荒れ、跳びの大きい走りをするオルロフには厳しい条件でした。
後の重賞勝ち馬ディープサマーが大差で勝ってしまったこともあり、タイムオーバーになってしまいます。

2戦目の芝1200m未勝利戦では良馬場にも恵まれ、一変して2着となります。
今後は距離を伸ばしていく予定でしたが、距離が短いながらも結果を出せたことで、3戦目も芝1200mへ。
「距離は短いが、力だけで何とかしなければならない1戦」とのことでした。

しかし、やはり本質的に1200mは適正外ということなのか、タイムは詰めたものも6着に敗れます。
まだ力が付ききっておらず、調子が落ちていることもあり、放牧に出てリフレッシュさせ、復帰後は距離を伸ばしていくことに。

ところがオルロフは屈腱炎を発症していました。
半年ほど休養するも回復の見込みが立たず、引退となりました。

早くから数を使ってくれると思い出資し、実際、早期デビューしましたが、成長途上のこの馬には知らず知らずのうちに負担がかかっていたのかもしれません。
おそらく、オルロフは晩成のステイヤーだったのではないかと思います。
1度、中長距離を走るオルロフを見てみたかったですね。

勝手な思い込みかもしれませんが、オルロフが故障した後、厩舎の馬の使い方が変わったように思います。
数を使う傾向自体は変わらないのですが、最初のころはもっといけいけどんどんで使っていた印象でした。
今は適度に馬を休ませ、リフレッシュさせるようになったと思います。
ファインスティールが長く活躍しているのも、そのおかげかもしれませんね。
オルロフは残念ながら良い結果ではありませんでしたが、1つのきっかけになったのであればいいなと思います。

この厩舎の馬にはオルロフ以降、出資してはいませんが、たくさん走らせてくれるので一口向けの厩舎だと思います。
1流騎手にこだわる方には向いていませんが、地味目の馬も勝ち上がらせていて、キャロットとの相性も悪くないです。
機会があったらまたこの厩舎の馬に出資したいと思っています。

一口馬主の思い出(9)

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2008年4月29日 (火)

2002年産募集馬回顧

一口馬主の思い出(9)

一口馬主を始めるときには、誰でも目標というか、夢を描くものだと思います。
それはダービーを勝ちたいとか、種牡馬になるような馬に出資したいとか、人によってさまざまでしょう。

私も「こんな馬に出資したい」という目標を3つ掲げました。

一つ、名付け親になりたい。
一つ、『馬なり1ハロン劇場』に出演して欲しい。
一つ、ぬいぐるみを買いたい。

これはかなりの難関です。
名付け親はクラブの人に送った名前を採用してもらえるか次第ですし、『馬なり』は重賞を題材にすることが多いですから、重賞に出ないと出演する可能性は低いです。
重賞に出ても出演するとは限らないですし。
ぬいぐるみに至ってはG1勝ちかナイスネイチャ級の人気馬にならなければ発売されません。

目標を立てたのはいいものの、そう簡単に達成できるとは思っていませんでした。
しかしウインドフォールで名付け親に、シーザリオで残りの2つを実現できました。
まさか一口を始めて3年目の出資ですべての夢がかなってしまうとは。

2002年産の募集馬は関東馬20頭、関西馬22頭の計42頭でした。
キャロットクラブがリニューアルしたときに、ちょうどお腹に入っていた世代です。
サンデーサイレンス産駒が7頭も募集されていて、かなり豪華な顔ぶれでした。

この年、私が出資したのは3頭。
サーチエネミー、オルロフ、そしてシーザリオです。

ウインドフォールの扱いにいろいろ思うところがあったため、定年間近でさほど実績を残していない厩舎は避け、新進気鋭と言われる若手厩舎中心に検討しました。
また、あまり売れていない馬に1次募集からほいほい出資するのはやめ、なるべくぎりぎりまで様子を見ることにしました。

1次募集では、すぐ満口になりそうだったサーチエネミーにのみ出資。
松田国英厩舎で調教助手をしていた友道厩舎所属です。
その後、年が明けてシーザリオが満口間近となったため、出資しました。
こちらも松田国英厩舎で調教助手をしていた角居厩舎所属です。
新規開業の中尾秀厩舎所属のオルロフとファインスティールが2歳4月と言う早い時期に入厩するということで、どちらかに出資しようと思い、オルロフを選びました。

各馬については次の機会に詳しく書きたいと思います。

一口馬主の思い出(8)

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2008年4月16日 (水)

2001年産出資馬回顧

一口馬主の思い出(8)

この年、私が出資したのはヴォークリンデリヴインホープウインドフォールの3頭でした。
初出資のラントルフト(ロトピジョン)が未出走で引退してしまったので、実質的にはこの世代から1口馬主ライフのスタートです。

この3頭を通じて、私は出資馬を選ぶ上での重大な要素を知りました。
それは厩舎です。
恥ずかしい話ですが、当時の私は厩舎の重要性というものに、まったく気づいていませんでした。
募集直後に出資したリヴインとウインドなど、どこの厩舎に所属予定なのかすら知らなかったのです。
今とは違い、募集カタログに予定厩舎一覧が同封されるなんて気の利いたことはなかったとはいえ、その気になればすぐに調べられたはずなのに。
あまりにも無頓着でした。

では何を重視して出資馬を選んでいたのかというと、まず関西馬ということと、種牡馬です。
あとは顔とか流星の形とか。
馬体の良し悪しなんて私にはわからないし、何とかと何とかのインブリードでクロスがどーのといった血統もわかりません。
出資した3頭も、その理由は超適当。
ヴォークリンデ→持込ならマル混以外のレースに出られる。顔かわいい。
リヴインホープ→ジェイドロバリー産駒はダート得意。ダート馬なら故障しにくい。
ウインドフォール→エンドスウィープ産駒はダート得意。ダート馬なら故障しにくい。
浅いです。
ちなみにこの年、関西のエンドスウィープ産駒は3頭いました。
エンシェントヒルとエンドレスウェルズ、共に牝馬で1600万と、牡馬のウインドより200万高い価格でした。
ウインドに出資した理由は牡馬なのに牝馬より安く、お買い得だと思ったのですよ奥さん。

当時の私は、馬が良ければ厩舎なんて関係ない、と思っていました。
そりゃ足が速くて丈夫で気性も良ければ、どの厩舎でも活躍できるでしょう。
しかしそんな馬はごくひと握りで、大抵の馬はいろいろ弱いところがあったり、そもそも能力がなかったりします。
その弱点とも言える部分をカバーし、少しでも良い状態で出走させ、馬にあったレースを選ぶのが厩舎なんですよね。
もちろん手を尽くしてもダメなことはありますが、「これだけやってダメなら仕方ない」と思えるなら、たとえ結果が出ずとも、消化不良のまま終わるよりずっと良いと思っています。

ヴォークリンデ、リヴインホープ、ウインドフォール、それぞれを見て、馬の扱いは厩舎によって違うと知ることになりました。
当たり前のことなんですけど、その当たり前のことを知りませんでした。

各厩舎には割り当てられた馬房があります。
馬房の数に限りがある以上、期待薄の馬は後回しにされます。
古馬になってからのヴォークリンデは、厩舎に余裕のあるときしか入厩させてもらえなかったですね。
走るたびに騎手レベルが下がり、期待度の低下が見て取れました。

しかし、厩舎運営も立派な事業である以上、より大きな利益を上げねばなりません。
多くの賞金を稼げる馬を厩舎に入れたほうが効率がいいのは言うまでもありません。
ヴォークは骨折して思うような成績が残せなくなった後、徐々に厩舎内のランクが下がっていきましたが、これは仕方のないことです。
ヴォークには繁殖としての役割もありますから、無事に牧場へ送り出すのも調教師の仕事でしょう。
その割には引退が遅かったような気もしますが、たとえ成績が上がらずとも、致命的な故障をしていない以上、骨折前の走りを見せてくれることを願うのも、まあありかな、とも思います。

リヴインは、まだ馬がそろっていない新規開業の厩舎に転厩したことで、500万下に格上挑戦する未勝利馬としては破格の好待遇を受けました。
リヴインがもし馬房の余裕がない厩舎所属だったら、未勝利戦が終わった段階で引退していたかもしれません。

一方、ウインドといえば、厩舎内の優先度がびっくりするほど低く、いつ声がかかってもいいよう、ひたすら乗り込みながらグリーンウッドで待機し続けるのが主な任務でした。
未勝利戦終了前というのは、弱い馬でも優先してもらえる唯一の時期だと思いますが、それでもなかなか馬房を空けてもらえず、やっと入厩した後も納得できない使い方でした。

クラブの馬は個人馬主の馬よりも立場が弱く、後回しにされてしまうことがあります。
馬房の回転が悪い厩舎だと、クラブ馬が割を食うことが多いです。
クラブ馬でも平等に扱ってくれる厩舎を選ぶことが大切なんだと痛感しました。

一口馬主の思い出(7)

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2008年3月24日 (月)

ウインドフォール回顧

一口馬主の思い出(7)

ウインドフォールは栗東・鹿戸厩舎所属のエンドスウィープ産駒です。
額に「、」のような形の小さな星がある鹿毛の牡馬でした。

出資した理由はリヴインホープと同じで、早期デビューできそうだったことと、ダート向きの馬なら故障する可能性も低いのではないかと思ったからでした。
ウインドフォールはエンドスウィープの内国産初年度産駒で、スイープトウショウやアドマイヤムーンはまだ走っていません。
当時エンドスウィープ産駒と言えば、サウスヴィグラスを代表として、ダート短距離が主な活躍の場でした。

さて、早く仕上がりそうという予想は当たり、順調に調整の進んだウインドフォールは、2歳新馬戦の始まる前、4月26日に山元TCへ移動しました。
5月16日にはグリーンウッドへ移り、入厩前調整を始めます。

しかし、ここから長いトンネルに入ることになります。
リヴインホープのようにケガをしてしまったわけではありません。
厩舎に入れてもらえないのです。
十分仕上がり、入厩できる状態なのに、「厩舎に3歳未勝利馬がいるから」という理由で、ずっとグリーンウッドで待機です。
いつ声がかかるか待ちながら、6月、7月、8月と、ひたすら15-15を乗り続けます。
その間、同じ厩舎の2歳馬たちはぞくぞくと入厩し、デビューしていきます。

2歳の8月、いつまでたっても入厩のメドが立たないため、いったんペースを落としてから、仕上げ直すことになりました。
どころがペースを緩めたとたんザ石を起こしてしまい、治療し終わった後も原因不明のハ行が治まりません。
見た目に腫れがあるわけでもなく、レントゲンを撮ってもエコー検査でも異常はありませんでした。
素人考えですが、夏の間ずっと、いつでも入厩できるように体調を維持し続けたことが、このハ行の原因だったんじゃないかと思っています。
ペースを緩めたことで、張り詰めていたものが切れて、疲れが一気に出たのではないでしょうか。

結局、入厩できたのは11月でした。
6月にはすでに入厩できる状態だったのですから、半年も時間を費やしてしまったことになります。
ゲート試験に手こずったこともあり、デビューは明け3歳の1月28日。
芝1800mです。
スタートで出遅れ、四角で逸走というめちゃくちゃな走りでタイムオーバーでした。

2戦目はダ1700m。
大きく出遅れるも5着と健闘。
ダートなら・・・、と思わせる内容でした。
しかし、この後2度とダートを走ることはありませんでした。

3歳4月、3戦目の芝1800mを9着で終えた後、グリーンウッドへ放牧へ。
この時点では短期放牧の予定で、「6月中には入厩させたい」とのことでした。

しかし、結局、再入厩したのは8月18日。
10日後の8月28日に追い切り1本で芝1800mに出走。
あえなく12着に沈みます。
すでに2走連続9着以下だったため、次に9着以下になるようだと1ヶ月の出走停止となり、未勝利戦が終わってしまいます。
まさに正念場。
1度叩いて上向きになるでしょうし、ぜひともきっちり仕上げてダートを使って欲しい、と心から願いました。

なんと連闘で芝2000mへ。
2週連続で小倉へ長距離輸送です。
好走できるはずもなく、ウインドフォールは11着に沈みました。
連闘で疲れがあったのでは、と騎手はコメントしていました。
そして引退。

もう言葉もありません。
騎手の「ダートの方がよさそう」との評価にもかかわらず、芝に固執。
追い切りもろくにせず、馬房待ちはトータルで半年は軽く超えます。
2歳時、「3歳未勝利馬がいる」という理由で入厩させてもらえなかったのに、他の2歳馬は入厩していました。
いざウインドフォールが3歳未勝利という立場になったら、年下の2歳馬は入厩しているのにやっぱりウインドは馬房が空くのを待ち続けなければいけませんでした。
何でこんなに嫌われなければならないのでしょう。

引退後、ウインドフォールは岩手競馬へ移籍しました。
そこでの成績を見る限り、調子のいいときに入厩し、ちゃんと調教してレースを選べば、勝ち上がれた・・・かどうかはわかりませんが、少なくとも3アウトで未勝利戦終了前に引退しなければならないほどではなかったと思います。

ダートを使わなかったのは、その後エンドスウィープ産駒が芝でも走っていることや、2歳下の半弟アドマイヤジュピタが芝長距離で重賞勝ちを収めるほどの活躍をしていることから、実はウインドフォールは芝もこなせたんだと、無理やり納得できないこともありません。
でも、最後のレースをなぜ連闘したのかは、あれから数年たった今でもわかりません。
次に9着以内に入らなければ、未勝利戦が終わってしまうのに、入厩して10日でレースに使った馬をわざわざ2週連続で小倉まで輸送する必要があったのでしょうか。
一刻も早く馬房を空けたいのかと思いきや、一度は500万下で続戦させると言い出し、半月ほど調教しているんですよ。
結局力不足ということで続戦は撤回となり、引退しましたが。
まったくもって行き当たりばったりというか、理解できません。

実は私、ウインドフォールの命名者なんですよね・・・。
そのぶん思い入れもあっただけに、残念でなりません。

一口馬主の思い出(6)

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2008年2月 6日 (水)

リヴインホープ回顧

一口馬主の思い出(6)

リヴインホープは音無厩舎所属のジェイドロバリー産駒です。
額に星がある、黒鹿毛の牡馬でした。

初出資馬ラントルフトが脚元の不安からなかなか調教が進まず、とにかく早くデビューできそうな馬が欲しかったので、早期デビューを期待して出資しました。
ジェイドロバリー産駒ということで、ダート馬なら脚元にかかる負担も少ないだろう、とも思いました。

目論見どおり、リヴインは大型馬のわりに仕上がり早く、2歳5月には北海道を出てグリーンWに移動し、8月には入厩と順調な滑り出しを見せました。

しかし入厩当日、台風が来て、強風に怯えてしまったのか、馬栓棒を蹴って骨折してしまいました。

骨折も癒え、3歳1月に再び入厩するも、今度は立ち上がって転倒。
腰を強打し内出血してしまいました。
気性面の問題が、ケガを誘発しているとの見解で、去勢することになります。

打撲と去勢手術を乗り越え、3度目の入厩を目前にして、飼い葉桶に脚を引っかけ、また転倒。
7針を縫う大ケガでした。

さすがにサジを投げられたのか、音無厩舎から、その年開業したばかりの池江寿厩舎へ転厩となります。
今思えばなんとも豪華な移動です。

その後も落鉄したり脚が腫れたりしながらも、未勝利戦も終了間近という時期にようやくデビューに漕ぎ着けます。
初戦の結果はいいところなく惨敗、13着でした。

そして除外されたりで2戦目を迎えることができずに未勝利戦が終了してしまいます。
普通ならこの時点で引退となるのでしょうが、当時、目の病気でレースから遠ざかっていた上村騎手の進言もあり、現役続行。
500万下へ格上挑戦していくことになりました。

デビュー2戦目の500万下で5着。
3戦目で見事優勝!

決して順調な過程とは言えず、格上挑戦なので出たいレースに出られないなかでの勝利、今後に夢が広がります。

しかし、4戦目は大敗し、5戦目の1週前追い切りで蹄骨を骨折してしまいます。
1年近く休養するも、復帰することはできませんでした。

能力はあったと思います。
個人的には、未勝利の身で500万下を勝つためには、1000万下で勝ち負けできるくらいの力が必要だと思っています。
少なくとも、500万下をあと2勝(当時は勝って即昇級のルールではありませんでした)はできたでしょう。

リヴインホープはアクシデントのかたまりのような馬でした。
もうデビューは無理だろうと何度も思いました。
しかしリヴインはデビューし、しかも勝ち上がりました。
勝ったときは涙がでるほどうれしかったのです。
リヴインはよくがんばりました。
気性難のリヴインのために馬房にゴムを取り付けたり、さまざまなケアをほどこしてくれた池江寿師を始め、関係者の方々にも恵まれたと思います。

その名のとおり「最後まであきらめない」ということを体現したリヴインホープ。
私は、サーチエネミーやペルネティアナといった、再ファンドにはなるべく応じるようにしていますが、これはリヴインの影響が大きいです。

一口馬主の思い出(5)

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2008年1月14日 (月)

ヴォークリンデ回顧

一口馬主の思い出(5)

2003年8月24日。
ヴォークリンデのにデビュー戦が、出資馬初出走でした。
キャロットクラブに入会して1年半、なんかやたらと時間かかっています。

ヴォークリンデは栗東・藤原英厩舎所属でした。
シングスピール産駒の持込馬で、栗毛の牝馬です。
とても形のよい流星と大きな瞳が印象的で、出資した理由も顔がかわいいからというものでした。

2歳の8月と早くデビューし、堂々の1番人気に押されましたが結果は2着。
連闘でのぞんだ2走目も2着。
その後は放牧に出ましたがツメが悪くて復帰は明け3歳の正月開催でした。
復帰2戦目に鞍上武豊で見事優勝!

一口を始めて約2年、ようやく初勝利です。

しかし、ヴォークリンデは次のレースの前に骨折し、1年の休養を余儀なくされました。
それからは1~2戦しては放牧のくり返しで、2007年3月、6歳で引退しました。
デビューから引退までの3年8ヶ月で11戦しか走れず、初勝利の後は1度も8着以内に入ることはありませんでした。

特に5歳秋から6歳3月にかけて、引退に至るまでの過程は、
暮れの中京で出走予定→滞在競馬のほうが良いので1回小倉まで待機→小倉まで輸送したくないからさらに待機して3月の中京で2回使う→ようやく出走→やっぱ1回しか使えないので引退ね。
ってな具合で、なんじゃそりゃーと言いたくなるようなものでした。
ホントは2ケタ着順連発の馬のために馬房空けたくなんかないんだけど、引退期限が迫ってるしケガしているわけでもないから、最後に1走させないと、という感じだったんじゃないかと思います。

競走生活の後半はあまり良いことがありませんでしたが、初出走と初勝利をプレゼントしてくれたヴォークリンデには感謝しています。
デビュー当初の、ゲートが開いた瞬間に半馬身前に出ているほど抜群のスタートは、見ていて楽しかったですね。
(1年遅かったとは思いますが)無事に繁殖入りすることができて良かったです。
キャロットで募集される可能性もあるでしょうから、楽しみです。

一口馬主の思い出(4)

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2007年12月31日 (月)

2001年産募集馬回顧

一口馬主の思い出(4)

一口を始めた当初、出資するのは年一頭で十分だと思っていました。
たとえ勝てずとも、月イチぐらいで走ってくれれば楽しめるからいいや、と。

そんな馬めったにいません。

すべての馬がコンスタントにレースに出走するわけではないのです。
むしろほとんどの競走馬はケガや病気との戦いです。
一口を始めるまでは予想もしなかった現実でした。

ここから2002年募集馬の話になります。

2001年産はキャロットクラブのリニューアル2年目の募集馬です。
急遽、馬を集めた2000年産はマル外中心のラインナップでしたが、この年からノーザンファーム産の馬が増えていきます。
関東馬20頭、関西馬16頭と、募集馬の数は今よりずいぶん少なかったですね。

募集馬が発表されたときには、ラントルフトはまだ引退していませんでしたが、デビューまで時間がかかりそうなことは明らかでした。
ヒマな一口馬主ライフです。

勝ち上がることができる競走馬は、3頭に1頭の割合だと言われています。
だったら3頭出資すれば、1頭は勝ち上がってくれるかもしれません。
そんなわけで、2001年産は複数頭に出資することにしました。
まあお金ないんでたくさんは出資できないですが・・・。

しかし、ここで大きな問題が浮上しました。

カタログ届いたのが一次募集〆切2日前!!

当時は〆切日必着ではなく、当日消印有効でしたが、どっちにしろそんな短期間では選べません。
一次募集で満口になった馬は泣く泣くあきらめることにしました。

今よりずっと即満口馬が少なかったとは言え、リストの段階で出資候補一番手だったシューブラックに出資することはできませんでした。
シューブラックは未出走で終わってしまったので結界的には吉とでましたが、見る目ないなあ私。

2次募集開始を待って、ジェイドロバリー産駒のリヴインホープとエンドスウィープ産駒のウインドフォールに出資。
この頃、ダート馬が好きだったので、ダートを走れそうな馬を選びました。

そして、年が明けてラントルフトが引退したのをきっかけに、シングスピールの持込馬ヴォークリンデに出資しました。

各馬についてはまたの機会に書きたいと思います。

一口馬主の思い出(3)

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2007年12月 9日 (日)

ラントルフト回顧

一口馬主の思い出(3)

ラントルフトはティンバーカントリー産駒の栗毛牝馬です。

少し乗り込んでは脚元に疲れが出てペースダウン、というのを何度かくり返しましたが、2歳12月には15-15ができるようになって山元トレセンへ移動しました。
そこで骨折し、そのまま引退となりました。
デビューすることはできませんでした。

初めての出資馬が未出走引退。

競走馬が無事にデビューし、レースに出るのは決して当たり前のことではなく、さまざまな過程の上に成り立っています。
そんな簡単なことも知らなかったんですね私は。
いやホント、レースに出ることがこんなに大変だとは、一口を始めるまで思ってなかったですよ。

ラントルフトは、一口馬主の現実と競走馬が無事にいることの難しさを教えてくれました。

ちなみにラントルフトはその後ロトピジョンと名前を変え、佐賀競馬でデビューしました。
今は引退し、桑原牧場というところで繁殖牝馬になっています。
2006年には父マーベラスサンデーの栗毛牡馬、
2007年には父アグネスフライトの栃栗毛の牡馬を生んでいます。
キャロで募集されることはまずないでしょうし、中央で走るかもわかりませんが、仔どもたちは応援していきたいと思います。

一口馬主の思い出(2)

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2007年11月25日 (日)

初出資馬選び回顧

一口馬主の思い出(2)

キャロットクラブで一口馬主を始めることにしたわけですが、クラブの次に決めねばならないのが出資馬です。

2001年産の募集馬は関東馬10頭・関西馬10頭の計20頭。
私がカタログと取り寄せた時点で、すでにエンドレスシーンとボートシャフターの2頭は満口でした。
今と比べると募集馬も満口馬もずいぶん少なかったですね。

ちなみにこの時点では馬名はまだ決まっていませんが、募集名(母名+生年)と正式な馬名が入り混じるとまぎらわしいので、馬名に統一して書くことにします。

記念すべき初出資。
しかし走りそうな馬なんてわかりません。
そこで、とりあえず安い馬に出資することにしました。
クラブに入会して初めて見えてくるものもあるでしょう。
お金がないというのも大きな理由ですが。

候補は関西最安値の2頭、ラントルフトとシュガータウン。
近親にブラックタイプが多いという単純な理由から、ラントルフトを選びました。

一口馬主の思い出(1)

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2007年11月17日 (土)

クラブ選び回顧

あんまりネタも無いので、一口の思い出でもボチボチ書いていこうかと。

2002年3月、とうとつに一口馬主をやろうと思いたちました。
はっきりしたきっかけは無かったと思います。
単に忘れちゃっただけかもしれませんが。

このときまだ競馬暦1年。
栗東と美浦の違いすらよくわかっていなかったのに、大それたことを考えたものです。

さて、一口馬主を始めるにあたって、まず選ばなければならないのがクラブです。
ちょうど手元にあったGallpをめくって情報収集しました。
一口馬主クラブは19社ありますが、なにせお金が無いので、社台なんか無理ってもんです。

とりあえず4つのクラブの資料を請求してみました。
シルクHC・友駿HC・ジョイTC(現セゾン)・キャロットクラブの4社です。
この中から一つを選ぶわけですが、冠名があるのはいやだなあ、ということでシルクと友駿は除外。
なぜもっと早く冠名の存在に気づかなかったのでしょうか・・・。

残ったのはジョイとキャロット。
ジョイは社台系種牡馬の産駒が多く、キャロットは○外中心のラインナップで、2001年募集馬からノーザンファームと提携、というのが当時の特徴でした。

キャロにするかジョイにするか・・・。
Gallpの広告がカラー2ページだった、というわけのわからん理由でキャロットクラブに決定しました。

うちの近所のコンビニでは、競馬ブックがすぐ売り切れてしまうのに対し、Gallpはいつまでも売っていることが多いので主にGallpを買っています。
もしブック派だったらキャロには入会していなかったかもしれませんね。

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