出資馬回顧

2017年4月11日 (火)

メトロノース回顧(2)

一口馬主の思い出(34)

08170408間が空いてしまいましたが、前回の続きです。

4歳になったメトロノースは、リフレッシュ放牧を経て春に一度入厩するも、鼻出血を発症。
約10ヶ月の休養となり、4歳の初戦は10月までずれ込みました。
放牧は長引きましたが、除外で思うようにレースが選べない中、5戦して勝てはせずとも掲示板を外さない堅実な走りを見せ、これなら4勝目も近いと思われました。

迎えた5歳。
正月競馬を走ってから放牧へ出たメトロノースは、しかし左前の蹄を痛めてしまいます。
休養は1年に及び、結局5歳では年初めの1走しかできませんでした。

長い休養を終え、6歳で8戦、黒岩陽一厩舎へ転厩して7歳で3戦するも、もうかつての輝きを取り戻すことはありませんでした。
そして、28戦3勝という成績で、JRAの登録を抹消されたのでした。

クラブ所属馬でなくなったあとも、メトロノースは地方競馬へ移籍し、佐賀、大井、高知と渡り歩きました。
10歳まで現役を続け、最後のレースは2016年9月10日。
2008年の8月17日にデビューしてから、丸8年が経過していました。
馬体は真っ白になり、あの太い流星はもう見当たりません。
中央地方合わせて71戦15勝。
立派な馬でした。

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2017年1月24日 (火)

メトロノース回顧(1)

一口馬主の思い出(33)

08170405メトロノースは栗東・安田隆行厩舎所属、アドマイヤコジーン産駒の芦毛の牡馬でした。
額から鼻先にかけて通った太い作と立派な腹袋を持った、どこかのほほんとした印象を受けた馬でした。
この厩舎の馬に出資してみたいな、と思っていたところ、お手頃な値段で募集されていたので出資することにしたのでした。

育成中は疲れを見せることもあったのですが、回復も早く、2歳5月には入厩することができました。
のんびりとした性格が災いしたのか、3回ゲート試験に落ち、4回目でようやく合格。
その後、打撲しましたが、ずっと厩舎で調整を続け、初入厩から3ヶ月後の2歳8月にデビュー戦を迎えました。

芝1200mのデビュー戦は4着。
ダートへ矛先を変えて臨んだ2戦目の1400mで初勝利をあげました。
2週間の短期放牧を経て、地方交流重賞の北海道2歳優駿へ挑むことになりました。
そこでメトロは、なんと5馬身差の圧勝で重賞制覇を飾ります。
長く続くことになる競走馬生活のハイライトが、早くもデビュー3戦目で訪れたのでした。

その後は勝てはせずとも芝を使った2戦以外は大きく崩れもせず、コンスタントにレースを走り、3歳の暮れ、デビュー12戦目の摩耶Sで3勝目をあげました。
そして、前途洋々に思われたこの勝利が、結果的には中央所属自体の最後の勝ち鞍となったのでした。

長くなったので続きます。

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2016年6月 5日 (日)

フェーラシュヴァル回顧

一口馬主の思い出(32)

フェーラシュヴァルは栗東・笹田和秀厩舎所属、ファルブラヴ産駒の鹿毛の牡馬でした。
その昔出資していたリヴインホープの従兄弟になります。

たしか1次募集では埋まらず、2歳の3月頃に満口間近となったので出資したと記憶しています。
全兄のトランスワープ、アウスピカーレ共に脚元があまり丈夫でないのが少し心配だったものの、お兄さんたちが大型馬だったのに対し、本馬はそれほど大きくなかったし、出資した時点では順調に調整が進んでいたので、まあ大丈夫かなと思って出資したのでした。

しかし、ペースが上がってくると、疲れ、半腱半膜様筋の痛み、トモの疲れ、右前蹄の痛みと、次から次へ疲れや痛いところが出てきて、なかなか調整が進まなくなってしまいました。
どうにかこうにか調整を続け、ようやっと入厩にこぎつけたときには3歳の4月になっていました。
もはや悠長にしていられる時期ではありません。

いったんは阪神でのデビューが示唆されたものの、結局は函館へ移動し、滞在競馬で戦っていくことになりました。
待望のデビュー戦は3歳6月。
ダート1700mの未勝利戦、結果はいいところなく11頭立ての10着でした。

その後また蹄を痛め、2戦目は未勝利戦終了間際までずれ込みます。
デビュー戦とは大きく条件を変えた芝1200mのレースで、フェーラシュヴァルは、大きく出遅れるも函館の短い直線だけで4着まで押し上げる、良い走りを見せます。
見どころのある走りを披露したものの、未勝利戦はもう終わり。
フェーラシュヴァルは名古屋競馬へ移籍し、再起への道を計ることになりました。

しかし、これまでも悩まされてきた体質と脚元の弱さはどうにもならず、移籍してからもだましだましの調整が続きます。
そして、地方競馬で2戦するも、5着、7着と結果を出せず、歩様に違和感もあることから引退となりました。

フェーラシュヴァルは、手控えた調教のみでデビュー2戦目に4着まできたのだから、天性のスピードはあったのではないかと思います。
しかし、競走馬にとって最低限必要な体質や脚元の丈夫さを持ち合わせてはいませんでした。
やはり丈夫さというのは、競走馬の根幹をなすものだと、改めて考えさせてくれました。

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2015年6月22日 (月)

ピットスポルム回顧

一口馬主の思い出(31)

ピットスポルムは栗東・安田隆行厩舎所属、アグネスタキオン産駒の鹿毛の牝馬でした。
当時すでに多くの活躍馬を輩出し、人気種牡馬の座を確固たるものにしていたアグネスタキオン。
なのに1200万円という安いお値段での募集でした。
何か胡散臭いなあという気持ちもあったにはあったのですが、安田厩舎所属ということで、あまり深く考えずに出資したのでした。

牧場での育成時代、ピットスポルムはたびたび線の細さを指摘されてはいましたが、育成自体は大きな頓挫もなく順調に進めることができました。
そして、2歳の8月には宇治田原優駿Sへ移動、9月末には栗東へ入厩を果たします。

ところが、ゲート試験に合格したあたりから、元々あった気性面の難しさが前面に出るようになってしまいます。
馬房の中でテンションが高く、熊癖のため馬体が細化。
予定を前倒ししてデビューするも、そんな状態で力を出せるはずもなく、1番人気で10着に敗れ去りました。

その後もピットスポルムは馬体減に悩まされ続けました。
特にトレセンに入ると急激に消耗し、馬体が一気に減ってしまいます。
そのため、できるだけ外厩で仕上げ、最短でレースへ出るのですが、わずか10日の間に40キロほども減ってしまいます。
そんな状態ですから、満足に追い切ることもできません。

結局、4戦してすべて2ケタ着順という成績で、ピットスポルムの競走馬生活は終わりを迎えました。
走るほどに着差は開き、ラストランは大差のシンガリ負け。
スタート後、楽に前に付けるだけのスピードはあったのですが、レースの前にすでに消耗しており、そのスピードをゴールまで持続させるだけの体力が残っていませんでした。

しっかり飼い葉を食べて、しっかり調教を積めたときにどの程度の走りができたのか、それはわかりません。
必要以上に体力を使わないこと、それも含めて能力なのでしょう。
持って生まれた性格は、そうそう変わるものではありません。
きっとピットスポルムにとって、トレセンの環境は苦痛でしかなかったのだと思います。

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2012年12月 4日 (火)

クラウドバスター回顧

一口馬主の思い出(30)

クラウドバスターは栗東・大根田厩舎所属、タニノギムレット産駒の牡馬でした。
栗毛に太い作と四白という派手な外見が印象に残っています。

出資した理由は、馬体がよく見えたからというもの。
1600万円と、手ごろな価格の牡馬だったからか、1次募集で抽選になる人気馬でした。
無事に抽選を突破した時はうれしかったですね。

さて、クラウドバスターは、力んで走るところがあったものの、育成自体は順調に進み、2歳6月には栗東トレセンへ入厩することができました。
早期デビューの期待が一気に高まります。
しかし、蹄や左トモの状態が悪く、ぎこちなさがあるということで、放牧に出てしまいました。
立て直しをはかり、2歳12月に再入厩をはたすも、やはり蹄や左トモの具合が悪く、またすぐに放牧へ。
もともと蹄の質が良くないため、蹄底に負担がかかり、それをかばって左トモが悪くなるのでした。

地道に回復を目指すこと6ヶ月。
3歳6月に、クラウドバスターは再々入厩します。
最初に栗東トレセンに入ってから、ちょうど1年がたっていました。
未勝利戦終了まで残された時間は少なく、焦りが募ります。
しかし、三度目の正直とはいきませんでした。
弱さを抱えていた蹄や左トモの状態は改善しておらず、クラウドバスターは未出走で引退することになりました。
3度入厩するも、ゲート試験を受けることすらできませんでした。

クラウドバスターにとって、放牧先での15-15が限界だったのかもしれませんが、それでも馬自身は精一杯走ったことでしょう。
たとえ出馬表に名前が載ることはなくとも、せめて、クラウドに出資していたことを忘れないようにしたいものです。
お疲れ様でした。

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2012年5月 2日 (水)

ペルネティアナ回顧(2)

一口馬主の思い出(29)

09162131 間が空きましたが、前回の続きです。

未勝利馬にとって、ガケっぷちとも言える3歳の8月。
小倉のレースへ出走するため、長距離輸送中だったペルネティアナに予想外の出来事がふりかかりました。
トレセンで馬インフルエンザが発生したため、競馬開催そのものが中止になってしまったのです。
開催中止の決定がレース前日と急だったため、すでに途中まで移動していたペルネティアナや他の馬はトレセンへUターンを余儀なくされました。

ペルネティアナ自身はウイルス感染しておらず、開催中止も1週だけだったので、翌週のレースへスライドすることに。
仕切り直しとなった4戦目は5着入線。
2度の手術からわずか2ヶ月、さらに2週連続長距離輸送という厳しい条件でのレースだっただけに、好走と言っていい結果でしょう。
でも、もう3歳未勝利戦がなくなるまでに残された時間はわずかです。

5戦目は2着。
連闘でのぞんだ3歳未勝利戦ラストウィークの6戦目は5着。
3歳未勝利戦が終了しました。

しかし、勝ち上がれなかったものの、ノドの手術後は厳しいローテの中でも掲示板を外さなかった走りを評価されて、再ファンドされることが決まりました。
再出発をかけ、名古屋競馬場へ転出となったペルネティアナは、そこで5戦2勝2着3回という成績を上げ、JRAへ戻ってくることになりました。

再出資するか否か選択できましたが、私は迷いなく再ファンドに応じることにしました。
同じく再ファンドだった出資馬サーチエネミーが準オープンまで出世する活躍を見せていましたし、また何よりも、一度出資した以上せめて手の届く間は、という思いがあったからです。

ペルネティアナは、最初は元の音無厩舎へ戻る予定だったのですが、スムーズに入厩できないということで、当時開業したばかりだった栗東・吉田厩舎へ所属することが決まりました。
マル地としてJRA再出発したペルネティアナは、4歳4月の転入初戦で6着に。
しばらくは主にダート中距離を使われます。
2回5着に突っ込んできたことがありましたが、多くは大敗で、勝ち負けには遠い状態が続きます。
鼻出血こそないものの、テンションが上がりやすく、興奮して鼻を鳴らす癖もあいかわらずで、レース中に鼻を鳴らして集中できないこともありました。
それでも、体調や脚元に少し不安が出ることはあっても、大きな故障をすることはなく、地道に500万下を走り続けました。

そして時は流れ、5歳の3月、マル地となって12戦目。
距離を短縮し、地方交流戦で500万下を勝つことができました。
地方所属時代の5戦を除くと、デビューから18戦目、JAR所属馬としては初めての、そして結果的には唯一の勝ち鞍となりました。

その後、ペルネティアナは1000万下クラスで5戦するも通用せず、5歳末に左前球節に軽い腫れと熱感が出て、致命的な故障ではなかったものの、成績面と6歳3月末の牝馬引退期限が考慮され引退となりました。

JRA所属馬として23戦、地方所属馬として5戦、ペルネティアナはコンスタントに出走してくれました。
JRAの競馬場で勝ち星をあげることはできなかったけれど、小柄な馬体でよくがんばりました。

ありがとうペルネティアナ。

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2012年3月14日 (水)

ペルネティアナ回顧(1)

一口馬主の思い出(28)

041 ペルネティアナは栗東・音無厩舎所属、クロフネ産駒の栗毛の牝馬でした。

1月生まれで400キロに満たない小柄な馬体が倦厭されたのか、厩舎や血統の割に人気せず、一次募集では満口にならなかったと記憶しています。

私が出資した理由は単純で、厩舎が良く、お手頃な価格だったからです。
わりと体高はあったし、クロフネ産駒なのでもう少し成長するだろうと思って、小さいのはあまり気になりませんでした。
むしろ、小柄な牝馬ということで、早く仕上がって早期デビューできればいいなと思っての出資でした。

1歳の冬を越し、少し大きくなったペルネティアナは育成もしごく順調に進み、2歳4月には北海道を出発し、グリーンウッドへ旅立ちます。
初めての長距離輸送で軽いスクミが出て、少し足踏みしたものの、2歳6月には初入厩できて、ここまでは私が出資時にもくろんだ通り進んでいきました。

が、しかし。
ここで思わぬ壁が立ちはだかります。
入厩してからペルネティアナは鼻出血をくり返すようになってしまいました。
原因は、興奮すると鼻をブイブイ鳴らす癖があるからでした。
あまりにも頻繁に鼻を鳴らすため、粘膜が弱くなって炎症を起こし、出血してしまうのです。

ゲート試験は合格したものの、こんな状況ではデビューへ向けての調教ができないので、グリーンウッドへ放牧に出ることに。
鼻以外に問題はなかったので、すぐに再入厩できるかと思いきや、癖というものはそう簡単に矯正できるものではありませんでした。
鼻出血は治まらず、ついには北海道へ逆戻りとなりました。
その後も鼻を鳴らす癖は続きましたが、鼻血を出さないよう細心の注意を払いながら調整が進められ、ようやく3歳2月に再入厩へこぎつけることができました。

鼻を鳴らしまくるという妙な癖のために、なんと9ヶ月もの時間を費やしてしまったペルネティアナ。
3歳4月、ついにデビューの日を迎えます。
早期デビューは幻に終わりましたが、これまでの経緯があるだけに感無量でした。
ダート1400mでの初陣は、出遅れて後方から脚を延ばしての6着。
既走馬相手のデビュー戦としてはまずまずのレースで、これなら勝ち上がれるかも・・・、と思えました。

しかし2戦目は11着。
3戦目も8着に大敗。
DDSPの症状が出ていたのでした。

鼻の次はノドが鳴る――。
ペルネティアナは手術を受けることになりました。
しかも、1度目の手術の後に再発し、再手術するはめに。

すでに3歳6月、未勝利のペルネティアナにとって、残された時間はあまり多くありません。
もしかしたら未勝利戦終了までに間に合わないのでは、と思いました。
しかしペルネは鼻やらノドやらに問題はあっても、体質自体は強かったようで、再手術からなんと2週間で追い切りを行うまでに回復。
3歳8月には復帰戦も決まりました。

しかし、手術後初のレースとなる4戦目、小倉へ長距離輸送中のペルネティアナにさらなる事件が起こります。
なんと、トレセンで馬インフルエンザが発生したため、競馬開催自体が中止になってしまったのです。

長くなったので、続きはまた今度書きます。

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2011年11月16日 (水)

サーチエネミー回顧(2)

一口馬主の思い出(27)

Searchzk080309 前回の続きです。

JRAへの再登録をめざし、地方競馬へ移籍することになったサーチエネミー。
当時のルールでは「地方競馬で5回以上出走し1勝以上、もしくは2勝以上」が再ファンドに必要な条件でした。

移籍先は名古屋競馬に決まり、角田輝厩舎所属となりました。
気性難を改善するためしばらく調整し、年が明けて4歳になったサーチエネミーは1月6日に地方デビューをはたします。
結果は楽勝。
返す刀で連闘で望んだ2戦目も、馬なりでハナに立ち、直線でも持ったまま逃げ切りと、地方でメンバーが落ちるとはいえ力の違いを見せつける勝利でした。

地方デビューしてからわずか1週間でサーチエネミーは再ファンドの条件を満たし、JRAへ再登録を行うことになりました。
再ファンドでは、出資者は再出資するかしないかを選択できます。
私はサーチエネミーの再ファンドに申し込むことにしました。
理由は3つあります。
1つは地方での勝ち方が良かったこと。
もう1つは、一度出資したのだからせめて現役でいる間は出資者として応援していきたいと思ったこと。
3つ目は元の厩舎には戻らないから、でした。

サーチエネミーは、開業したばかりの美浦・中川厩舎でJRA再出発を計ることになりました。
マル地として美浦へ行っても、精神的に難しいところがあるのは相変わらずで、パニックになったりレースで走るのをやめようとしたり。
しばらく500万下クラスで低迷が続きました。
走れど走れど惨敗。
しかし陣営はあきらめず、馬具や調教、レース条件の試行錯誤をくり返しました。

そしてマル地となって7戦目、東京ダ1400mで3着に入り、ついに光明を見出します。
次走、同じ東京ダ1400mでサーチエネミーは念願の中央初勝利を飾りました。
なんと6馬身差の圧勝でした。
その後、1000万条件もわずか3戦で勝ち上がり、サーチは準オープン馬になりました。
地方へ移籍するとき、「500万下では通用しない」と言われたのがウソのようです。
さすがに準オープンは荷が重かったものの、気性難のサーチエネミーを見放さず時間をかけて取り組んでくれた中川厩舎には感謝の言葉しかありません。

サーチエネミーは準オープンで1年ほど大敗を続け、新たな活躍の場を求めて障害入りすることになりました。
障害初戦でいきなり5着に入り、これなら障害でもうひとつ勝てそうだと思いましたが、2戦目は8着。
その後、放牧を経て臨もうとした障害3戦目を目前にして、屈腱炎を発症し、引退となりました。

3歳の1月にデビューしてから、ラストランとなった6歳12月まで、4年間にわたって走り続けたサーチエネミー。
惨敗することも多かったけど、良い思い出もたくさんもらいました。
体高が低くて、首を低く下げる走法も相まって、レースではひときわ小柄に見えたのを思い出します。
青いラインの入ったメンコが良く似合っていました。

引退後、サーチは出資されていた方に引き取られ、乗馬として幸せな生活を送っています。

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2011年11月15日 (火)

サーチエネミー回顧(1)

一口馬主の思い出(26)

Searchzk060514_2 サーチエネミーは栗東・友道厩舎所属の鹿毛の牡馬でした。

私が一口馬主を始めて3世代目に出資した馬のうちの一頭となります。
まだ出資馬が勝ったことがなく、出走数も少なかったため、とにかく早くデビューしてくれる馬が欲しくて、エンドスウィープ産駒なら仕上がりが早いのではないかと考えて出資したのでした。
また、開業してまだあまり経っていない厩舎だったので、たくさん使ってもらえるのではないかとの思いもありました。

サーチエネミーは育成時代、右トモをハ行したソエが出たりするなどして、私が目論んだ2歳夏デビューはできませんでしたが、2歳の11月には入厩までこぎつけ、それほど遅れたわけでもありませんでした。
入厩して2週間でゲート試験にも合格と、まずまず順調に進みました。

しかしここから一つの問題が浮上してきます。
馬場入りを嫌がったり、何かに驚いてパニックになったりと、気性面の難しさが前面に出てきてしまったのです。
不安を抱えつつも、年明け3歳の正月競馬、ダ1400mで初陣を迎えることになりました。
結果は2着。
調教で走る気を見せなくとも実戦タイプかもしれないと、いったんは明るい光が見えました。
しかし、2戦目の同条件では9着に大敗。
自分でレースをやめてしまって、まったく集中できていませんでした。

その後、リフレッシュのために短期放牧へ出て、一月半ほどで再入厩するも、気性の難しさは改善されず、馬場入りの際に暴れて放馬してしまいます。
幸い大事には至らなかったものの、気性難で満足いく調教が積めないということで、去勢手術を受けることとなりました。

去勢手術を受け、セン馬となったサーチエネミー。
手術後に熱発し、さらに骨瘤や骨膜が出て復調に時間がかかってしまいます。
ようやく良化しても今度はなかなか入厩させてもらえず、復帰は3歳9月までずれこみました。
仕上がり途上で出走した3戦目、芝1800mは10着。
一度叩いて状態も上向くかと思いましたが、また放牧へ。
当時は5着以内の優先出走権などなく、出走間隔も関係なかったのですが・・・。

未勝利戦終了のカウントダウンが気になるなか、ギリギリまで入厩させてもらえず、牧場で追い切りを行い、帰厩10日でラストチャンスに向かうことになりました。
当初予定していた芝1200mではなく、芝2000mへ急遽レースを変更しての出走でした。
結果は4着。
そして、3歳未勝利戦が終わりました。

調教師からは「能力を発揮できない現状から500万では厳しいと思います」とのコメントが出されましたが、4戦2着1回4着1回という戦績が評価されたのか、協議の結果、サーチは再ファンドをめざし地方へ移籍することになりました。

長くなったので続きます。

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2011年4月13日 (水)

グロリアーナ回顧

一口馬主の思い出(25)

Meimeisyo02グロリアーナは栗東・庄野厩舎所属、シンボリクリスエス産駒の青鹿毛の牝馬でした。

グロリアーナに出資した理由は、まず第一に馬体が気に入ったこと。
相馬眼なんてありゃしませんが、カタログに載っていた青鹿毛の黒光りする写真はとてもきれいで、脚元も丈夫そうに見えました。
私は、出資馬を決める際は、主に厩舎を重視して選んでいるのですが、当時、庄野厩舎は開業したばかりで、丈夫そうなグロリアーナと数を使ってくれそうな若手厩舎は合うのではないかとの皮算用もありました。

目論見どおり、育成はおおむね順調に進み、2歳8月にグロリアーナは函館競馬場へ入場できました。
ゲート試験にも問題なく合格し、9月28日にデビュー予定日が決まりました。

ところが。
デビュー前の最終追い切りで、グロリアーナは蹄を痛めてしまいます。
牧場へ休養に出ることになり、しばらく軽めの運動を行っていましたが、あまり良化しなかったためレントゲン検査を行ったところ、蹄骨の骨折が判明しました。
治療を行ってデビューを目指すことになり、一時はハロン16秒を計時するまで回復しましたが、半年後、再発。
デビューはあきらめ、引退することになりました。

グロリアーナは、私が馬名を採用された3頭めの馬だったのですが、一度もレースで名前を呼ばれることはありませんでした。
グロリアーナに限ったことではありませんが、未出走で引退となった馬というのは、実際どれくらいの能力があったのかわからないぶん、あとに心が残ります。

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